29 五感が隅々まで働いているモーリアックの文章 2007.10.9~2018.5.22(2019年に追記)
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小説を書くとき、傍に置いているのは、いつ頃からかフランソワ・モーリアック(遠藤周作訳)『愛の砂漠』(講談社[講談社文芸文庫]、2000)だ。
フランスのボルドーに生まれた、カトリック小説家として知られるフランソワ・モーリアック(François Mauriac, 1885 - 1970)。
フランソワ・モーリアック(1952年)
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小説の技法の高度さ、視点の柔軟さ、内容の小市民的良識から傾斜した底知れない深み……小説を書きたいときには、本当に参考になる。
父と子がマリア・クロスという蠱惑的な女性に恋をし、どちらもが失恋するという幻滅の二重奏、否マリアの幻滅をも容れれば、幻滅三重奏ともいえる物語なのだが、物語の展開や登場人物――特にマリア――の心理には共感を誘う中に意外性があって、何ともいえない余韻を残す作品なのだ。
男女の心の機微、家族模様、背景の移り変わるさまが丹念に描かれている。幻滅も、これだけの美意識を以って克明に描かれると、幻滅そのものが神秘的なエッセンスのようにすら思えてくる。何て成熟度の高い小説であることか。
男である作者になぜ、女の心理が手にとるようにわかるのかと呆れさせられる。スタンダールやフローベールの描く女が、女の皮をかぶった男にしか思えないのは、むしろ男の書き手としては自然なことだろう。
しかし、このモーリアックやバルザックときたら、男でありながら完全に女でもあるという不可思議さを示す。
マリアの心理には共感を誘う中に意外性がある――と、わたしは前述した。ここを正確に述べれば、マリアの心理は同性からすれば意外でも何でもない――といい換えなくてはならない。
娼婦的なムードを纏ったマリア・クロスの心理が男性小説家に多く描かれてきたような、男性本意というのか、男性の幻想性に依拠したものではなくて、同性の観点からすれば、ごくありきたりと思える心理が克明に掘り下げられており、それがわたしにはとてつもなく意外だったのだ。
語弊のあるいい方だが、マリアのような強い香りを放って多くの男性を惹きつける特殊なタイプの女性であったとしても、その心の動きはわたしのようなごく一般的な女と変わらないという意外さであり、それは作者モーリアックを通した発見であったといえる。
というと、まるで自分が一般女性を代表しているかのようだ。実際には同性であろうとなかろうと、自分以外の人間のことは想像でしかないにせよ、わたしにはとにかく、モーリアックの描くマリア・クロスがありきたりなようでありながら、とても新鮮に思えた……。
しかも、『愛の砂漠』ときたら、内部に女を包み込ながら全体としてはこの上もなくダンディーで、上質の強い男の香りがするのである。
例えば、『愛の砂漠』の中の何気なく装われた次の一場面の文章の香気は、如何ばかりであることか。
父が食卓から急に立ったあの晩の翌朝、夜が明けるやいなや、食堂でココアを飲んだことを覚えている。窓が外の霧に向かって開かれていたので、彼はひきたてのコーヒーの香りの中で寒さを感じて震えた。小径の砂利が古いクーペの車輪の下できしんだ。医師はその朝、出かけるのに手間どった。クーレージュ夫人は桃色の部屋着をはおり、夜、いつもそうする引っつめて編んだ髪のままで、中学生の額に接吻した。だが息子は食事をするのをやめなかった。*1
どこにでもありそうな朝の情景。それでいて、この家庭だけに潜在する特殊な事情がおぼろげに見えてくるような描写だ。この父はあの晩、なぜ食卓から急に立ったのか? この母親の接吻を気にも止めなくなった、この成長した息子。
食堂に漂うコーヒーの香り(嗅覚)。霧が立ち籠める外気の冷たさ(触覚)。古い車がきしませた砂利の音(聴覚)。ココアを飲んだ記憶(味覚)。部屋着の桃色(視覚)。
短い文章であるにも拘らず、作者の五感が隅々まで働いていることがわかる。
『フランソワ・モーリヤック インタビュー集 残された言葉』(田辺保・崔達用訳、教文館、1989)を再読し、かつてはこのような、明晰で正直で人類という観点から多様な物の見方ができる作家がノーベル文学賞を受賞していたのだと改めて思った(1952年に受賞)。
ノーベル文学賞が左右に偏向するといったような生易しい危機ではなく、どこの街中にでもある人気コンテストになってしまった現状をモーリアックが知ったら、何というだろうか。彼は小説の危機を次のように分析している。
時代というものはいつでも、多少の差こそあれ、悲劇的なものであったのです。だから、わたしたちが日常体験している出来事だけでは、大ざっぱに小説の危機と呼ばれているものを十分には説明しきれないでしょう。(略)小説の危機とは、わたしが思うには、形而上的な性質のもので、ある種の人間観と結びついているのです。*2
その危機は、現在のわが国でこそ深刻な状況にあると感じられるのだが、確かにモーリアックの時代、プルーストがモーリアックにいわせれば「人格としての人間の解体」を見せつけたあたりから始まっているという見方に同感だ。
2019年における追記:
2016年にノーベル文学賞がシンガーソングライターのボブ・ディラン(アメリカ合衆国)、翌2017年に娯楽的要素の強い大衆文学の人気作家カズオ・イシグロ(イギリス)に授与されるといった、これまでとは異なるジャンルへの授与が続き、ノーベル文学賞は迷走した。
2018年はノーベル文学賞の選考機関スウェーデン・アカデミーに問題が起き、選考・発表が見送られた。これで、ノーベル文学賞も終わりかと思われたが、2019年に2年分の授与が行われた。
2018年のノーベル文学賞は、ごたまぜのスピリチュアル風俗を作風とするポーランドの作家オルガ・トカルテュクに授与され、わたしは恣意的な手法に疑問が湧いた。
2019年になってようやく、純文学の要素である芸術的、求道的、学究的な要素を備えた作品を発表し続けているオーストリアの小説家、劇作家であるペーター・ハントケに授与されて、何とか軌道修正が行われたようである。
詳しくは、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の 64「2016年に実質的終焉を告げたノーベル文学賞」、75「ノーベル文学賞の変節、及び古代アレクサンドリアにおけるミューズ」、98「軌道修正したらしい、2019年発表のノーベル文学賞」をご参照いただきたい。