43 拙読書体験から疑問に思った、「青い鳥文庫」に関する新聞記事 2011.3.7
「講談社新社長」「青い鳥文庫」に関する新聞記事
昨日(2011年3月6日)の話。「講談社の社長が交代するみたいだね。新聞に載っているよ」と勤め先の書店から帰宅した娘。
へえーと思い、朝日新聞朝刊を見ると、「4月に7代目社長になる 講談社副社長 野間省伸さん(42)」という見出しが目に入った。
お坊ちゃまの典型例みたいなご容貌にハイ・センスなムードが漂う写真。経営戦略に終始した内容。「慶應大学卒業した1991年、旧三菱銀行に入行。99年に退職し、講談社入社。取締役、常務を経て2004年から現職。日本電子書籍出版社協会の代表理事も務めている」とあった。
講談社といえば、すぐに記事にするつもりで日付を残さずに切り抜いた朝日新聞朝刊の記事があったのを思い出した。「児童文庫 活況」という見出しに思わず微笑んで読み始め、驚きと共に読み終わった記事だった。最近、出版界には戦慄させられることばかりだ。以下は記事のプロローグ。
本が売れない時代、小中学生向けの「児童文庫」が堅調だ。世界の名作をそろえた岩波少年文庫だけではない。講談社青い鳥文庫が現代の子ども向けに新たなベストセラーを育てたのを機に、近年、児童文庫を創刊する出版社が相次いでいる。好調を支えるのは小学生。学校での「朝読」が子どもたちを読書好きにしている。(中村真理子)
本文では、「ここ数年の創刊ラッシュに火を付けたのは講談社青い鳥文庫のヒットだ。世界の名作を紹介してきた岩波少年文庫に対し、現代の子どもにあった物語を作ることを目指した」とあり、「青い鳥文庫も創刊当初は名作が中心だった」そうだが、1994年に始まった『名探偵夢水清志郎事件ノート』のヒットから流れが変わったらしい。記事の内容からすると、売り上げを伸ばすために純文学系からエンター系へと出版傾向を変えたということのようだ。
しかし、わたしが驚いたのは次に引用する箇所だった。
青い鳥文庫にはファンクラブがあり、中には年に400冊以上読む子もいる。ファンクラブの子どもから半年ごとに100人を「ジュニア編集者」に選び、本になる前のゲラを読んでもらう。これで今の子にわかりにくい表現を変えたり、作者が書き直したりする。時にはラストシーンが変わることもあるそうだ。
児童文学評論家の赤木かん子さんは「今の小学生にとって、携帯電話が登場しない時代の物語はもう古典」と言う。「現代の言葉で新訳したり、表紙をはやりのイラストにしたりするのは大事。あんたたちの本だよ、という目印なのですから」
ジュニア編集者にラストシーンを書き変えさせられる作者の気持ちというのは、どんなものなのだろう? プロであれアマチュアであれ、物書きであれば、作品のラストシーンがどれほど大事なものかがわかっているはずだ。こんな状況では、作者としての矜持は踏み躙られている。
児童文学作品を書く上で、子供の感じかたは参考になるものだろうが、大人の感じかたが十人十色であるなら、子供もまたそうなのだ。作者には、自身の裁量で参考にする子供を選ぶ権利があるはずであり、また参考にするやりかたもこんなものであっていいはずがない。
いっそ、子供に書かせればいいではないか。
編集も子供に。小学生のときに、学級新聞を作ったことを思い出す。記者になって市役所に取材に行き、記事を書いた。あれは楽しかったなあ。中学生のときに、文芸クラブで書いた童話を顧問の先生が活字にしてくれたのは、とても嬉しかった。そう、子供にやらせればいい。校正、割付……一から指導してやって。推薦の言葉も子供に書かせよう。本になったら、営業も担当させてみればいい。そして、自分たちが出した本が社会にどのような影響を及ぼしているかまで、調査、考察させよう。
子供には、大人が考えているよりずっと多くのことができるのだ。児童文学の名作は、そのことを教えてくれる。
尤も、青い鳥文庫のやりかたは、嗜好品で子供を釣ろうとするのと変わりない。酒と煙草のことをよく知っている大人を選ぶようなやりかたで、子供たちの嗜好品に詳しい子供を選び、その好みにそった本を出しているわけだ。
児童にとっての読書は、血となり肉となるものだ。情操を育み、人格形成に作用し、幸福の質を決定する。そして、国民の読書傾向は、社会の質を決定するといっても過言ではない。
わたしは昔講談社から出た児童文学全集を貴重に思い、過日ブログにリストアップしてみた。
「『世界の名作図書館』全52巻(講談社、1966-70) - 収録作品一覧」『マダムNの覚書』。2010年8月14日 (土) 17:37 UTC、URL:http://elder.tea-nifty.com/blog
数ヶ月に1人くらいアクセスしてくれるかしらと期待していたところ、毎日のようにアクセスがある。また、「マダムN 推薦図書」といった検索ワードを打ち込んで見えるかたも少なくない。
良書を、また良書選びの指標を求めている人々は案外多いのではないかと思う。
記事で一言している児童文学評論家は、自分のいっていることがわかっているのだろうか? 古典は価値がないとしかとれないようなニュアンスだが、エジプトの洞窟に隠された壷の中で二世紀から眠っていた古文書の内容に感涙するわたしには全くもって意味不明な言葉だ。児童文学作品の目利きであるはずの評論家が、本を大根かバナナみたいに賞味期限のある生鮮食品扱いしているのには驚く。文学作品のよさを知らない可哀想な人だとすら思える。
拙読書体験
いわさきちひろの挿絵を初めて見たのは、幼稚園でだった。そのときの情景も、絵自体も、昨日のことのように鮮明に覚えている。児童文学作品の挿絵は美術品を鑑賞することへの架け橋ともなることを、記事の児童文学評論家は知らないのだろうか。本来なら、読者ではなく、本の内容が挿絵を選ぶはずだ。
ところで、わたしが中学1年生のとき、母がジュニア版の文学全集を注文したといった。わたしはその頃、図書室で見つけた偕成社の「少女ロマン・ブックス 全16巻」に夢中になっていた。
わたしは母がこの「少女ロマン・ブックス 全16巻」を注文したのだと早とちりして大喜びしたのだったが、届いたのは、岩崎書店の「ジュニア版 世界の文学(全三十五巻)」だった。わたしは悲しくて、悔しくて、「そんなもの、いらない!」と地団太踏み、泣いた。勿論、母からは叱られた。なぜ、あのとき、あんなに泣いたのか、わからない。「少女ロマン・ブックス」に心の拠り所を求めていたのかもしれない。
たぶんお小遣いで買ったのだろう。最終巻の『アンネは美しく』だけが今も手元にあり、他は図書室から借りて読んだ。他の出版社から出ていた同系統の全集も読んだ。それらの本は、今読んでも美しい内容だと思うが、あの時点では母が岩崎書店の「ジュニア版 世界の文学」を買ってくれて正解だった。
お金があったとしても、自分では絶対に買いそうになかった全集だと思うから。わたしはしばらく拗ねていた。とっつきにくそう、暗そう、大人っぽすぎる、むさくるしそうな人がいっぱい出てくる感じ……などと思いながら、そのうち、シュトルムの『みずうみ』とかフェルスターの『アルト・ハイデルベルク』といった近寄りやすそうなものから手を出すようになり、仕舞いには、寝る間も惜しんで読むようになっていた。
読み終えたとき、世界が一変していた。全集に収録された作品にはどれも力強さがあった。深さがあった。世界は広大だと感じさせた。
全集を読んでいた間というもの、わたしには膀胱神経症という癒えない悩みがあり、母は腎臓病で1年間もの入院生活を送るなど、面白くない毎日が続いたが、全集にはつらい境遇の人が沢山出てきて、それなのに彼らは何か崇高な、人間的な輝きを帯びて感じられた。作者の内的な光が彼らにそのような輝きを与えているということには気づかなかったが、とにかく、読んでわたしは彼らとの連帯感を味わったのだ。嫌なことの多かったはずのあの日々が幸福な日々として甦ってくる。
わたしにはあの頃、「少女ロマン・ブックス」のような思春期の心の襞を美しく描いたシリーズも必要だったと思う。そうした清純な、夢のあるシリーズも、今はあまり出ていない気がする。ポプラ社の「百年文庫」『18 森』にモンゴメリーが入っているのは嬉しい。ジャルジュ・サンド、インドの大詩人タゴールとの組み合わせという豪華さだ。
以下は、「ジュニア版 世界の文学(全三十五)」(編集/白木茂・山本和夫、岩崎書店、昭和42~45年)。
- ジェーン・エア(C・ブロンテ)
- レ・ミゼラブル(ユーゴー)
- 猟人日記(ツルゲーネフ)
- 赤い子馬(スタインベック)
- ジキル博士とハイド氏(スティーブンソン)
- 女の一生(モーパッサン)
- 月と6ペンス(モーム)
- 三国志(羅貫中)
- 罪と罰(ドストエフスキイ)
- シラノ・ド・ベルジュラック(ロスタン)
- 白鯨(メルビル)
- 阿Q正伝(魯迅)
- 初恋(バルザック)
- 即興詩人(アンデルセン)
- 血と砂(イバニエス)
- 静かなドン(上)(ショーロフ)
- 静かなドン(下)(ショーロフ)
- ジャン・クリストフ(上)(ロラン)
- ジャン・クリストフ(下)(ロラン)
- 若きウェルテルの悩み(ゲーテ)
- 春の嵐(ヘッセ)
- 椿姫(デュマ)
- 母(ゴーリキイ)
- 息子と恋人(ローレンス)
- アルト・ハイデルベルク(フェルスター)
- アッシャー家の没落(ポー)
- 武器よさらば(ヘミングウェイ)
- せまき門(ジイド)
- タラス・ブーリバ(ゴーゴリ)
- はじめての舞踏会(マンスフィールド)
- 緑の館(ハドソン)
- 戦争と平和(上)(トルストイ)
- 戦争と平和(下)(トルストイ)
- みずうみ(シュトルム)
- 世界名詩集(山本和夫編)
ベルテ・ブラット(石丸静雄訳)『アンネは美しく』(偕成社、1970)
「少女ロマン・ブックス 全16巻」の最終巻として収録されていたベルテ・ブラット(石丸静雄訳)『アンネは美しく』(偕成社、1970)の内容についても、触れておきたい。
ノルウェーの女性作家ベルテ・ブラット著、石丸静雄訳『アンネは美しく』(偕成社、1970)。
宝物となって今も書棚にあるこの本をお小遣いで購入したのは、前述した母との一件があった後のことだったと思われるから、中学1年生のときだったに違いない。定価430円と記されている。
絵が物語るように、堅実で情感豊かな16歳の少女アンネが18歳になるまでを描いた、ジュニア小説である。
ノルウェー西部のフィヨルドの奥で育ったアンネは、牧師夫人の仲介で都会に出、住み込みの女中のアルバイトをしながら高校を卒業するまでの顛末が純愛をテーマとして描かれる。
最新設備を備えた都会の家で、アンネは田舎娘としての頓珍漢な行動で周囲を苛立たせるが、彼女にはバイオリンと編み物の特技があった。
編み物をして生活費の不足を賄い、音楽一家と知り合ってからはバイオリンの腕が生きる。しかも、アンネは容貌が整っていて、特待生を目指すほど優秀だった。
わたしは当時、読みながら自分とアンネを比べて、あまりに大人びた、しっかりしたアンネに感心しながらも、話ができすぎているとも思った。
編み物は、バレンタインデーに男子に贈るマフラーを編むのが流行っていた。ただ、マフラーくらいは編めたとしても、それで生活費を稼ぐなど想像できなかったし、楽器にしても、ピアノを習ってはいたが、わたしは音大を目指している友人とは心構え自体が違うだけでなく、アンネは一日に何時間も練習している友人とも違っていて、さほど練習もせずに人前にバイオリニストとして立てるほどの腕前だったのだ。
アンネには様々な苦労がありながらも、音楽一家に育った青年イエスと恋に落ち、その恋は大小の起伏を交えながらゆっくりと育っていく。小説は、二人の明るい前途を暗示して終わる。訳者の解説を読むと、続編もあるようだ。
それによると、アンネはイエスと結婚して音楽の町ザルツブルクに住み、子供に恵まれ、パリで音楽の修行を続けようとするイエスのために奮闘するようだ。
登場人物がヨーロッパのあちこちへ移動するのが不思議で、ヨーロッパ全体が一つの国のようだと思ったことを覚えている。
『アンネは美しく』は、『赤毛のアン』の系統に属する作品ではないかと思う。こういうと顰蹙を買うかもしれないが、わたしにはアンはわざとらしく、騒々しく思えて、あまり好きになれなかった。率直で、生真面目で、駆け引きなど思いつきもしない、静かなアンネのほうが好きだった。
自分の性格がアンかアンネのどちらかに似ていたために、アンが嫌いだったのかどうか……いずれにしても、自分の子供っぽさに自覚があったのは確かで、アンネの静穏な魅力に惹かれ、大人っぽい判断力と行動にあこがれたのだろう。
訳者の石丸静雄氏の経歴をウィキペディアで見ると、石丸氏は佐賀県生まれで、『ニルスのふしぎな旅』を著したセルマ・ラーゲンレーフの神秘主義的な小説『幻の馬車』(角川文庫、初版1959、再版1990)の訳者でもあられるようだ。原文がどのようであるかは知らないが、邦訳の美しさは印象に残っている。