The Essays of Maki Naotsuka

オンラインエッセー集

37 日本画の価格がどのようにして決まるか知り、驚いた 2007.2.6

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『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」
葛飾北斎(1760 - 1849)
出典:Wikimedia Commons

 

日本画の売り買いの現場

 これまでわたしは、絵画展といっても、美術館で鑑賞する以外は、絵に、高くて30万円くらいの値段がつけられている程度の個展にしか行ったことがなく、本格的な売買の現場といった絵画個展とは無縁できた。

 土曜日に同人雑誌の主幹に呼び出されて行った先はまさに本格的な日本画の売り買いの現場で、わたしはそこへ何をしに行ったのかというと、絵を買いに……なわけはなく、刷り上った同人雑誌 20 冊を受けとりに行ったのだった。

 絵画個展は、同人雑誌の主幹の関係者が新進の日本画家で、その画家についている画商たちが取り仕切ったものだった。主幹はこの市にその絵画個展にきたついでに、同人雑誌をもって来られたのだった。送料節約のために。

 勿論、絵も観てほしいとのことだった。絵画個展の会場となった同じギャラリーで、別の絵画展が同時開催されていた。

 わたし以外にも呼び出された同人の男性が2人いて、1人は都合で来られなかった。

 遅れて来た同人の男性は無理に呼び出されて、明らかに怒っていた。彼も、わたしと同じように勝手に作品を印刷に廻されて同人にさせられたらしい。そのことでも、納得がいかないらしかった。

 わたしも実はちょっと怒っていたけれど、同人雑誌を運営する主幹の気概や苦労もわかるので、まあそのことは置いておくことにし、ともかくも絵を観る喜びがあって出かけたのだった。

 日本画の最高峰に位置するのは平山郁夫氏だという。そして、日本画の値段が、一号サイズ(葉書大)いくら、で決まるのだと初めて知った。一号サイズの値段が高ければ高いほど、絵画のサイズが大きければ大きいほど、値段は高くなる。

 年末の入札によって、その値段は決まるのだそうだ。コンクールの受賞歴を中心としたキャリア、年齢……エトセトラで決まるのだという。

 画商たちはわたしが絵を買いに来たのと勘違いしたのか、絵画個展の主を褒め湛え、威光を与えようと懸命だった。値段は、100 万円だの 500 万円だの、ついていたように思う。ローンで買えるようで、買い手の多くは投機目的で買うのだろうと想像した。

 まあ、そりゃ、綺麗な絵だけれどね……

 こんな値段がつくまでには、画家には相当な苦労があり、ここまでなれる画家は一握りにすぎないのだという。日本画家を目指している人々は星の数ほどいるそうだ。

 絵画の売買が行われる現場は、ペテン臭さが漂う、何か犯罪が行われた現場ででもあるかのような忌まわしさがあった。わたしにとっては、知りたくない世界だった。

 わたしがウブすぎるのだろうし、わたしの感覚も純文学作品に対するのと同じようにずれているのだろうから、きっとあれらの絵は値段以上の価値があるのだろう。

 ただミューズは、画家たちの順位づけや絵画の売買といった世俗のこんな営みをどう感じていらっしゃるのだろうかと思った。

 何にせよ、毒気に当てられた感じで、ついでに同人雑誌も創作もやめたくなった。仮にそうしたところで、誰もとめはしない、この侘しさ。

 主幹と別れたあと、同人雑誌 20 冊が入った包みをわたしは1つ、同人の男性は来られなかった人のぶんも 2 つ、よろよろと抱えて、彼の行きつけの喫茶店に行った。

 そこで、文学について、その世界について、いろいろと話した。が、その内容をここに洗いざらい書くわけにはいかない。

 家に帰りついて、さらなるショックがわたしを襲った……というと、いささかオーバーになるが、この挿絵はないんじゃない? 絵それ自体はいい絵なのだろうが、わたしの作品には合っていないのでは……

 それとも、わたしの作品からこんなふくよかな老女風の女性像が浮かぶのだろうか……もっと若い、そこはかとない魅力を湛えた痩身の女性に描いたつもりだった。第一、次のような一節があるのに。

夜空の月と競って細り続けたこの女人の痩身は、今まさに一条の光芒と見えたのだった――。*1

能楽に着想を得た作品で……あああ、世界が崩壊しそうだ。挿絵の効果はよくも悪くも大きい。 

 そういえば、20 冊もの同人雑誌をどうしているのかと同人の男性に訊くと、行きつけの喫茶店に置いて貰う以外は捨てているとこともなげにいった。そうか、それしかないか。人にやると嫌がられるからね……でも、印刷屋さんに申し訳ないなあ。

某油絵画家から届いた手紙

 後日、同人雑誌の懇親会で励ましを貰った某油絵画家から手紙が届いた。このかたは、同人雑誌に国画会に関する随筆を寄せていらした。

 画家の手紙には、創作に関することで、ジャンルが違っても通ずるような、考えさせられることが書かれていた。ラブレターを送るといっていた癖に違うじゃない……ま、いいや。送ってほしかった絵のパンフレットが入っていたから。ムムッ、この絵は観たことがあるぞ。

 パンフレットにある略歴を見ると、高校時代に日本画でコンクールに入選とある。日本画からスタートして、その後、油絵を手がけてこられたようだ。出発点であった日本画の繊細、確かな手法が、油絵の中で生きている。ああ、この人の絵は好きだ。 

 どこかジョージア・オキーフを連想させる、淡さとこくの両方を感じさせるような、力強さを秘めた優しげな色合い。風景画に描かれた山々の色合いは、そんな風だ。

 養鶏場の鶏たちの絵が、これはまた……鶏たちが何列にもずらりと並んでいる。このほのぼのとした、ユーモラスな、力強いタッチはルソーを想わせる。後方の木々から点状に飛び立つ沢山の鳥が描かれているのが、いい。鶏たちの産んだ卵が白と肌色に使い分けられて描かれているのが、またいい。

 そして、この絵。まあ、何てしたたかな、量感にはちきれんぎかりの牛であることよ! 背景の色合いがシックで、洒落ている。抽象画家として著名だった人物に師事されただけのことはあると想わせられる。どれかやろう、といわれたとしたら、わたしはこの絵を選ぶ。

 ほしいなあ。くれないかしらん。そんなの無理よね。前述した同人雑誌の懇親会で、「お描きになる絵は、お高いんでしょう?」と訊いたら、おおらかに笑って「ハハハ、わたしの絵は、本当に高い絵に比べたら安いですが、あのね、ちょっとは高いですよ~」と、おっしゃっていたっけ。

 先日招かれていった日本画の展覧会で、ちょうどこの感動とは対照的な感じを受け、以来気分的に鬱屈していただけに、油絵画家の絵を観て爽快感を覚えた。

 わたしが好まなかった日本画家は、技術的には決して凡庸の徒ではないことが素人のわたしにもわかった。

 ただ、絵に生命のぬくもりが感じられなかった。静謐な画風で綺麗なのだが、最初の感動を通り越すと、なぜか平板に感じられ出し、さらには虚無的な、灰色の霧状のものが感じられる気さえしてきて、見つめれば見つめるほど気分が沈んでくるのだった。

 油絵画家の絵を、生で観てみたいものだ。が、前述したように、たぶんわたしは彼の絵をどこかで観たことがあるはずだ。記憶にあるのだ。

*1:直塚万季『直塚万季 幻想短篇集(1)Kindle版、2014、ASIN: B00JBORIOM