53 村上春樹著『1Q84 BOOK3』の売り方、そして絵本作家の逆輸入現象から見えてくるもの 2010.4.17
ネットニュースでは、発売を待って長蛇の列が出来ていたそうだが、娘が勤務する書店は地方の郊外店(北海道から九州まであるチェーン型書店)だからか、昨日は10冊ほどの売れ行きだったという。
娘の勤務する書店でも、平台に山積みだそうだ。
娘が書店員なので、本に関してもたらされる情報は多い。出版社、取次店で今何が起きているか――といったことなど、一般人にはわからないことがわかったりする。
例えば、本の絡んだ社会現象が、作られたものか、自然発生的なものか、といったようなことも、娘がもたらしてくれる情報から推測可能で、わが国の文化のある部分が見えてくるようで興味深い。
村上春樹の『1Q84』シリーズは、福袋を売るような売り方で、ハリーポッターに倣った戦略かと思わせるが、新潮社も体質が変ったものだ。昔は洗練された純文学の新潮というイメージだったけれど、エンター系のイメージに変わりつつある。
一方、エンター系のイメージだった某出版社からは、格調高い翻訳文学作品が次々と出始めた。
時代と共に、出版社も変わって当然なのだろう。
以下は、『増える「逆輸入」絵本作家』と題された2010年4月16日付、朝日新聞記事からの抜粋。
イタリアで毎年開かれる子供の本の見本市「ボローニャ児童図書展」。47回目を迎えた今年も大盛況だったが、同展で才能を見いだされ、海外で絵本作家として認められた後に日本で出版する“逆輸入”型の日本人アーティストが近年増えている。(ボローニャ〈伊北部〉=南島信也)
……(略)……
ボローニャ児童図書展を毎年取材しているイタリア人ジャーナリストは、大手出版社の出す児童書の質の低下を指摘した。「大手は、翻訳などのコストのかかる外国人作家に目を向けない。イラストや話の内容も貧しくなった」
……(略)……
先月の会場には日本からも大手を含む20社以上の出版社が姿を見せた。彼らにとっても、海外で実績を積んだ作家をそこで“発見”すれば、育てるコストの節約にもなる。ボローニャ発、逆輸入作家の誕生は、今後も続きそうだ。
かつては新人を育てる児童書専門の出版社として有名だった某出版社は、持込みを受け付けなくなった。その出版社に限らず、中小に属する児童書専門の出版社には、新人を育てる余裕がなくなったように見える。
しかし、大手の場合は事情が違うと思われる。わたしはツイッターをするまでは(現在はしていない)、大手にも余裕がないからエンター系のものに力を入れている、と思い込んでいた。
豪華な世界の児童文学全集を編んでいたわが国の大手がそうした類のものを出さなくなって久しく、出版内容が貧しくなったことは明らかだからだ。
その大手のうちの一社からもエンター系の作品ばかりが出ているような気がして不審におもっていたところ、たまたまツイッターで、そこの――かなり責任があるはずの地位の――編集者の暮らしぶりがまる見えになっていたばかりか、担当している作家なのかそうでないのかはわからないが、とにかくその作家に向けて、実に馬鹿馬鹿しい感想を発信していて、愕然とさせられた。
その人は、先人の業績に胡坐を組み、一流企業人としての生活をのうのうと楽しんでいるように見えた。それだけならわたしの側の貧乏人の僻みですむことなのだが、問題はその人にはエンター系の作品しか読む力がないのではないか、と勘繰りたくなるものがあったことだった。
小泉不況の年に娘はその出版社を受験して途中まで進んだのだが、落ちてよかった、とわたしはそのとき初めて思った。
ああなるよりは、大手の出すポルノさながらの少女コミックスを買う少女に胸を痛める書店人としての厳しい暮らしの方がまだしもまともで、人間的に損なわれずに済んでいるという気がしたのだ。
娘は児童書志望だったが、大手はどこも週刊誌でしか新人を募集していなかった。当時娘が大手の受験対策としてとり組んでいた過去問を見たわたしは、軽薄、珍妙な出題傾向に驚かされたものだった。こんな問題を解いて合格するかコネで入ったかの人材が週刊誌で入り、文芸書や児童書に回っていくとすれば、どういうことになるのだろうとため息が出た。
その状況は、大手の出版傾向を見る限り、変わっていないのではないだろうか。中小の経営事情の厳しさは、娘の話からも伝わってくる。突然、連絡のつかなくなる出版社も多いという。
話は村上春樹に戻るが、わたしは『1Q84』シリーズの1と2を書店でざっと確認したくらいで、3はまだ見てもいないのだが、これまでに触れた村上春樹の諸作品には、読者を羊水にも似た混沌への退行に誘うところがあって、それはアルコールや眠剤がもたらす酔いや眠りにも似た子守唄であり、逃避願望、忘却願望を充たしてくれるところがあるように思われる。
村上春樹は2010年4月11日付、朝日新聞の読書欄「ゼロ世代の50冊」という特集の中で、以下のようにいっている。
小説を書いているときは、そこに今日的なテーマがあるかどうかというようなことはまず考えません。考えてもよくわからないし。
ノーベル文学賞を期待されるような作家のこのような言葉を読むと、わたしは脳味噌が腐りそうな気がしてくる。
このような書き方は何といえばいいのか、霊媒的に時代を映し出すのかもしれないが、靄がかかったようにしか映し出せないだろうし、作者自身も、このような書き方をしていると、時代に抱かれ……利用され……最高級の賛辞を浴びて時代の頂点にまで昇りつめるのかもしれないが、下手をすれば、いつか捨てられるのではないだろうか。『ノルウェイの森』の直子のように。
わたしがノーベル文学賞という言葉から連想するのは、レオン・サーメリアンが『小説の技法』(西前孝監訳、旺史社、1989)で書いたような以下のような作品だ。
優れた物語はすべてその根底に発見あるいは認識(アルストテレスの言う「アナグノリシス」)がある。物語全体が一つの発見あるいは認識の過程となっている場合もあるし、また個々の場面とか更に小さな行動の単位の中に発見や認識があることもあるが、これが状況の中で決定的な変化を生み出したり転換点となっていたりするのである。また物語の流れが次から次へと発見や認識の連続を為していて、結末での最終的な発見へと導いていくという形で行動全体をまとめる場合もある。
無知から認識へというのが物語の基本的な流れである。
村上春樹の作品では、サーメリアンのいう物語の基本的な流れが逆流している。
わたしは村上春樹について考えているとどうしても暗い、浮かばれない気持ちになってしまい、バランスをとるためにバルザックを読みたくなる。これを書いてきた今もそうで、たまたま書簡集を手にして本を開いたところ、次のようなバルザックの言葉が目に飛び込んで来た。
今私達は、知性の時代にたどりついたのです。物質の王、野獣の力は消え去りつつあります。知性の世界があって、そこで、知性の世界のピサロやコルテスやコロンブスといった先覚者に出会えるのです。思想の包括的な王国ができ、そこにも君主が現われるでしょう。このような野心をもっていれば、無気力も、こせこせした心もありえないでしょう。こうしたおろかしいことほど、時をすり減らすものはありません。だから、私が無限と感じているこの円環に、外側から入りこんで行くには、何か偉大なものが必要なのです。それにはただ一つのものしかありません。それは、――無限に対する無限――広大無辺の愛です。
わたしはあの子供時代へと逆行したくはない。無知へと逆行するのはご免だ。ましてや混沌とした羊水へなぞ――。羊水の所有者が堕胎でもしたら、一巻の終わりなのだ。
今日、帰宅した娘によると、平台に山積みにされた本の前で、中年女性と若い女性が以下のような会話をしていたという。
「これ、スゴイってね」
「あー、スゴイん?」
「うん、何がスゴイのかが、よくわからんのやけどなー」
「え? 何なんこれ?」
「え、本やろ?」
「あー」