エッセー「アストリッド・リンドグレーン」
(1)ワイルドなピッピに漂う憂愁の影 2010.4.23
(2)『はるかな国の兄弟』を考察する 2014.4.30
(3)愛蔵版アルバムで紹介された『はるかな国の兄弟』と関係のあるエピソード 2015.9.14
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連載形式で始めるエッセー「アストリッド・リンドグレーン」は、基幹ブログ「マダムNの覚書」で公開したノートに手を加えたものであることをお断りしておきます。
ウィキペディア「アストリッド・リンドグレーン」より、次に引用する。
アストリッド・リンドグレーン(Astrid Lindgren, 1907年11月14日 - 2002年1月28日)は、スウェーデンの児童書の編集者で、同時に児童文学作家でもある。彼女の著書は、世界の70か国語以上に翻訳され、100以上の国で出版されている。
スウェーデンの南東部のヴィンメルビューで4人兄弟の長女として生まれた。田園地帯の小さな牧場で家族と共に過ごした幸福な子供時代の経験が作品の下敷きになっている。10代の時、晩年のエレン・ケイに会い、影響を受けたという。その後、教師や事務員をする傍ら執筆活動を始め、1945年、『長くつ下のピッピ』(Pippi Långstrump)を執筆、これが彼女の世界的な名声の出発点となった。もともとこれは、彼女の小さかった娘カーリンのために考え出されたものだという。……(略)……
リンドグレーンの作品は、スウェーデンの豊かな自然に囲まれた子供達の姿を描いたものから、少年探偵が活躍する推理もの、幻想的なファンタジーなど幅広く、『長くつ下のピッピ』『やかまし村の子どもたち』『ロッタちゃん』などはテレビ・映画化もされている。*1
ごたごた荘:スウェーデンのカルマル県ヴィンメルビーにある、子ども向けのテーマパーク「アストリッド・リンドグレーン・ワールド」内
出典:Pixabay
- ろうそくを見つめ続けるピッピの姿
- ニイマンが描いたオリジナル版のピッピ
- 甘くない世間、厳しい人生を活写した
- オピニオンリーダーとしての様々な社会活動
- キリスト教的でも神秘主義的でもない死生観
- スウェーデンについて、息子のメールから
ろうそくを見つめ続けるピッピの姿
いきなり私事になるが、リンドグレーンは偶然、娘と誕生日が同じだ。その前日は父の誕生日であるし、そのまた1週間前はわたしに純文学創作の手ほどきをしてくれ、取材の仕方を教えてくれた女性編集者の誕生日である(申し訳ないことに、職業作家になって恩返しをするのは無理のようだが)。
全員が蠍座生まれということになる。そして、その全員がわたしにとってはちょっと謎めいた存在となっているのだ。
共通する天真爛漫さ、雄大あるいは型破りといってもいいようなスケールの大きな考え方。それと相容れない神経の過敏さ、底深いシビアさ。一見無邪気なお転婆少女に見える長くつ下のピッピにも、そうした性質を見出すことができる。
幼い頃に死に別れたママは天国、難破して行方不明になったパパはどこかの島の黒人の王様になっているとピッピは陽気にいう。ちいさなサル「ニルソンくん」、ウマと共に「ごたごた荘」で一人で暮らすピッピは、しかしながら、まだたったの九つなのだ。
料理が上手で、世界最強といってもいいくらいに力が強く、奇想天外なことばかりやらかすが、すばらしく頭がいいことも見てとれる。おまけに金貨を沢山持っていて、一人で暮らしていくには何も困らないかに見える。行動面だけ見ている限りにおいては、何の憂いもなさそうだ。
このピッピに憂愁の影が差し、孤独をじっと見つめ続けるピッピ自身が闇に呑み込まれそうになる危険性と隣り合わせにあることを印象づけられる場面がふいに現われると、ぎくりとさせられる。
ピッピとなかよしのトミーとアンニカはピッピの孤独に気づいている。アストリッド・リンドグレーン(大塚勇三訳)『ピッピ 南の島へ』(岩波少年文庫 016 - 岩波書店、2000)より、引用する。
ピンクのパジャマを着たアンニカは、子ども部屋の窓のわきに立って、ごたごた荘のほうをながめていました。
「ほら、ピッピがみえるわ!」
アンニカは、うれしがって声をあげました。
トミーも、窓のそばにかけよりました。ええ、ほんとでした! いまは木の葉も落ちてしまっているので、ピッピの台所まですかしてみえるのです。
ピッピは、手に頭をのせて、テーブルのわきにすわっていました。夢みるような目つきで、ピッピは、じぶんのまえでチラチラもえている、小さいろうそくをながめています……。「ピッピは、……、ピッピは、なんだかさびしそうにみえるわね。」と、アンニカはいいましたが、その声はすこしふるえていました。」
……(略)……
「もしピッピがこっちをむいたら、ぼくたち、手をふろうよ。」と、トミーがいいました。
でも、ピッピは、夢みるような目つきで、じっとまえを見つめているばかりでした。
それから、ピッピは、ふっと、火をけしました。*2
子供の頃の孤独は、この世に強くアプローチする手立ても原因を分析する方法も乏しいだけに、底なしのところがある。
大人になると、そうした面を忘れがちなのだが、リンドグレーンは終生忘れず、否、子供独特の孤独感を自身が共有していて、それを見事に描き出した作家ではないかとわたしは思う。
いや、あるいは、ろうそくを見つめ続けるピッピの姿は作者リンドグレーンその人であるのかもしれない。
殊に、こうした側面が強く表れた『ミオよわたしのミオ』『はるかな国の兄弟』においては、憂愁の帯び方が強烈にすぎ、不気味と感じさせられる部分さえある。
リンドグレーン自身の抱え込んだ闇を憶測させ、解決不能の死後の問題にまで発展していく力強さと救い難さを持っている。
彼女はそうした抜きさしならぬ問題を決してごまかそうとしない強靭さに加え、優美といってもいい注意深い優しさ、また豊かな幻想性と何よりユーモアに恵まれた人物でもある。それらが一つに溶け合って、忘れがたい、なつかしい味わいを残す。
あれは何年前のことになるだろう? 新聞記事でリンドグレーンの訃報に接したときは、ショックだった。まさに巨星墜つだった。
アストリッド・リンドグレーンの墓
出典:Wikimedia Commons
ニイマンが描いたオリジナル版のピッピ
徳間書店から出ているアストリッド・リンドグレーン(イングリッド・ニイマン - イラスト、いしいとしこ - 翻訳)『こんにちは、長くつ下のピッピ』(徳間書店、2004)には、イングリッド・ニイマンによって描かれたオリジナル版のイラストが使われている。
そのピッピはワイルドで子供っぽく、キュートながら、どぎついくらいに明瞭な絵柄だ。とてもパワフルな印象である。キャラが立っているといおうか。このピッピなら、地球を持ち上げることだってできそうだ(逆立ちしたら誰にだってできる?)。
わたしがこれまでに目にしたピッピのイラストは、どう見ても12歳にはなっているように見えるものばかりだった。ニイマンのは、ちょうど九つぐらいに見えるではないか。
この幼さで、サルとウマをのぞけば、たったひとりで「ごたごた荘」という一戸建てに住み、ちゃんとやっていけているキャラというと、ニイマン描くピッピのようなインパクトがあるくらいの女の子でなくてはいけないだろう。
ニイマンはピッピをよく理解していたといえる。
デンマークのイラストレーター、イングリッド・ヴァン・ニイマン。1940年頃。
出典:Wikimedia Commons
デンマーク語版ウィキペディア「Ingrid Vang Nyman」*3によると、イングリッド・ヴァン・ニイマン(Ingrid Vang Nyman)は1916年8月21日生まれのデンマークのイラストレーターである。
デンマーク王立美術アカデミーを中退。画家・イラストレーター・詩人のアルネ・ニイマンと結婚し、息子が生まれる。一家は42年にストックホルムに移住、44年に離婚した。
1945年からリンドグレーンの「長くつ下のピッピ」シリーズのイラストを手がける。59年12月13日に経済、健康問題から自殺した。
甘くない世間、厳しい人生を活写した
第三話『ピッピ 南の島へ』では、ワイルドというよりは凶暴な印象すら受ける箇所がある。
あるうつくしく晴れた夏の日に、自らを都会人で立派で偉いと思っている紳士がピッピの住むごたごた荘にやってくる。ごたごた荘を買い取って更地にし、新しい家を建てることを目論んでいた。
トミーとアンニカが毎日ごたごた荘の庭で遊んでいることを知った紳士は、「わたしは、じぶんの庭の中を、子どもに走りまわられるのはきらいだ。子どもってやつは、いちばんしまつがわるい。」*4という。
カラスとびをしていたピッピは、紳士の不躾な言い草にぎょっとさせられるような言葉を返す。『ピッピ 南の島へ』より、引用する。
「わたしも、さんせいだわ。」とピッピはとぶのをちょっとやめて、いいました。「子どもは、みんな射殺すべきだわ。」
「なんで、そんなこというのさ?」と、トミーが、むっとしていいました。
「そうなのよ。ほんとうは、子どもは、みんな射殺すべきだわ。」ピッピはいいました。
「でも、そうはいかないの。だって、そうしたら、小さい、しんせつなおじさんたちが、いつまでたってもでてこないわけだもの。ところが、そういうおじさんたちがいなかったら、ぜったいにこまるものね。」*5
第一話『長くつ下のピッピ』で、屋根裏部屋に置かれていた船乗り用の古い箱に二丁のピストルを見つけたピッピが天井に向けて発射する場面には肝を冷やしたが、第三話のピッピのこの言葉にはリンドグレーンのユーモアが全く利いていない。
ピッピがというより、作者が病んでいるという感じさえ受ける。前掲の憂愁を帯びたピッピも、第三話で登場するのである。
こうしたピッピは、『はるかな国の兄弟』に描かれた、暗い、あまりにも暗すぎる兄弟の置かれた境遇、火事で兄を亡くした弟のほうが死ねばよかったといわんばかりのあの酷な言葉(「お気の毒に、レヨンのおくさん! あんなにずばぬけていたヨナタンのほうがねえ!」)や、天国と見えて地獄的様相へと変貌していった死後の世界を連想させるし、読めば読むほどせつなくなる『ミオわたしのミオ』で繰り返し出てくる独特の孤独な言い回し「ええ、そうなのです」を連想させる。
作品のダークな面には、大人になったからこそ、敏感になるのかもしれない。子供だったとき、第一話でピッピがピストルをぶっぱなす場面には気も留めなかった気がする。頼り甲斐のある愉快なピッピがちょっと悪ふざけをしている、としか思わなかったに違いない。
しかし、今大人の観点で読めば、リンドグレーンの諸作品には、子供に読ませるものだからという手加減やまやかしが一切ないことに驚かされる。甘くない世間を、厳しい人生を活写した。
ピストルの場面以前の出来事として、ピッピはごたごた荘に泥棒に入られている。二人組の浮浪者であった。
ピッピにとってかけがえのないごたごた荘は、第三話でごたごた荘をほしがった紳士が思ったような、「いつひっくりかえるかわからない」「ぼろぼろ」の家なのだ。ピストルが護身用になると賢いピッピなら考え、使用可能か確かめるためにぶっぱなしてみたのかもしれない。トミーとアンニカには悪ふざけ、海賊ごっこと見せながら。
オピニオンリーダーとしての様々な社会活動
三瓶恵子『ピッピの生みの親 アストリッド・リンドグレーン』(岩波書店、 1999)に、注目すべきことが書かれている。
1944年にリンドグレーンが作家としてデビューしたことはすでに触れたが、その背後には実は夫ステューレの病気や、戦争の不安などが影響していたといわれる。アストリッド・リンドグレーンをインタビューした人々のなかでいちばん彼女の核心に近づくことができたと思われるマルガレータ・ストレームステットによれば、リンドグレーンのファンタジーあふれる児童書は、実は現実逃避と自分自身へのセラピーだともみられるのだそうだ。
アストリッド・リンドグレーンの作品で扱われるテーマ、すなわち、最初は幸福な子ども時代の思い出、次に子どもとしての自分の心のなかの暗い寂しい部分、最後にそれを越えるファンタジーに発展したという彼女の作品の移り変わりは、作家としての彼女自身の成長を示しているのかもしれない。*6
『はるかな国の兄弟』に登場する兄弟の母親は裁縫師で、兄弟の境遇の過酷さは、女の細腕で子育てをしている母親がもたらしたものだ。
つまり社会的なもので、有名になったのちのリンドグレーンが、オピニオンリーダーとして社会的に発言し続けていた事実と照らし合わせて考える必要がある。著名な作家となってから、リンドグレーンは福祉的な様々な社会活動に身を投じた。税金問題、出生率低下問題、動物虐待問題、図書館閉鎖問題への言及。子供専門病院の設立も彼女の事業の一つだった。
三瓶(1999,p.91)によると、リンドグレーンは平和への希求からゴルバチョフ大統領に手紙を書いたという。82歳のときだったそうだ。
リンドグレーンがオピニオンリーダーで、大衆の味方だったということは、政府当局にとっては目の上のたんこぶであったということも考えられる。このことと、彼女がノーベル文学賞を逃したこととは関係ないのだろうか。
キリスト教的でも神秘主義的でもない死生観
同じスウェーデンの先輩格セルマ・ラーゲンレーフは、1909年にノーベル文学賞を受賞している。ラーゲンレーフは『ニルスのふしぎな旅』のような児童文学作品ばかりではなく、大人向けの文学作品も沢山書いている。
スウェーデンの宗教では、スウェーデン教会(Svenska kyrkan)と呼ばれるルター派キリスト教会が最大の団体だそうで、2000年に政教分離原則が適用されるまでは国教会だった。その一方では、エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688 - 1772)のような神秘主義者を出す国柄でもあって、ラーゲンレーフにも『幻の馬車』という名立たる神秘小説がある。
スウェーデン人の神秘主義気質を考えさせられるが、ラーゲンレーフの場合、安定した死生観の持ち主だという気がする。前掲の死神が出てくる『幻の馬車』にしても、馥郁たる幸福感が漂う結末となっている。
しかし、リンドグレーンはそうではない。混乱、恐怖、救いがたい孤独感が感じられる。リンドグレーンの死生観はキリスト教的でも神秘主義的でもない気がするのだが、現時点ではよくわからないというのが正直なところだ。リンドクレーンの死生観については、この後も見ていくことにしたい。
スウェーデンについて、息子のメールから
ところで、『ピッピの生みの親 アストリッド・リンドグレーン』によれば、第二次大戦中、リンドグレーンは検閲局に勤務した。
わたしにとってデータベース(?)のようなところのある息子が電話してきたので、リンドグレーンが生きた時代のスウェーデンについて簡単に教えてほしいといったら、説明してくれ、次のメールをよこしてくれた。
北欧の歴史は学校ではあまり教わらないが、それはとても残念なことだと思う。北欧の歴史は、西欧や中国の歴史のような優雅さや雄大さはないが、独特の感性と誇りを感じる。
北欧四ヶ国(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド)は中世の間、対立や同盟、合同を繰り返してきたが、近世以降、ノルウェーがデンマークから、フィンランドがスウェーデンから分離したと思えば良いと思う。
20世紀に入ってからのスウェーデンが一番根幹としたのは中立だった。これを守るため、スウェーデンはかなり辛い思いをしている。特に、第二次大戦の時がそうだった。これはスウェーデンに限らない話で、フィンランドはソビエトに謂れのない戦を仕掛けられ、英雄マンネルハイムを先頭に敢然と絶望的な戦いに立ち向かった。デンマークとノルウェーはドイツの奇襲を受けたが、デンマークはイギリスに見殺しにされ悲哀を噛み締め、ノルウェーは凄惨なレジスタンス戦となった。一方、スウェーデンはどこにも侵略されなかった。しかし、それは戦争に囲まれた中での辛い中立国だった。
中立と言っても、ただ黙っていれば、それが保証されるわけではない。対戦が勃発すると、スウェーデンは50万の兵員を動員し、中立を守るために壮絶な覚悟を決めていた。50万と言っても、どれだけの無理かピンと来ないかもしれないが、そのうち、10万が婦人部隊にせざるを得なかったと言えば、いかに窮地だったか分かると思う。ドイツからは様々な要求で、自分達に味方するよう脅されていて、これをスウェーデンは忍耐をかさね、ぎりぎりまで受け入れ、またぎりぎりまで拒否し、中立は形骸化されつつも自国の中立を守った。しかし、連合国のイギリスからは中立違反を非難され、ドイツと戦うノルウェーからは兄弟を見捨てるのかと怨まれた。それでも、スウェーデンはドイツが崩壊するまで中立を耐え抜いた。後世、大戦中のスウェーデンについて、「大戦中、利己的に有利な方を助けた」と評判はよくないが、私は独立を守るための瀬戸際の駆け引きだったと思う。
戦後は、多分この経験が元だと思うが、重武装中立が基本的な理念のようだ。自らの軍事力で自国を守るという思想で、民間防衛機構や国民のほとんどを収容できる避難壕まであると聞く。
政治的には戦前から社民党の内閣が続いているが、これが、現実的な社会政党で、社会主義自体にはこだわらず、議会主義、王政を認め、福祉を重視した。
歴史を見ると、スウェーデンは外交、内政、それぞれ、優れたバランス感覚を示して、このバランス感覚が特徴だと思う。
*1:「アストリッド・リンドグレーン」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年8月21日 05:22 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org
*2:(リンドグレーン,大塚訳,2000,pp.198-200)
*3:「Ingrid Vang Nyman」『フリー百科事典 ウィキペディアデンマーク語版』。2018年8月30日21:15 UTC、URL:https://da.wikipedia.org
*6:三瓶,1999,pp.37-38